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注目

たまには時事ネター時世を読む

 今朝は、まだ大きな月が煌々と輝いている時間に目が覚めたのでした。それは4時11分。最近は、夜9時には眠くなってしまうので、早寝早起きの良好な生活習慣が続いています。 朝食前にドローイング制作をして、休息時間に朝食を簡単にとります。そして一応ネット上でニュースをチェックします。今日気になったニュースは、「池袋SEIBUデパートの売却」問題。YouTubeではテレビ系のニュース番組で専門家の解説が視聴出来るようになったので、少し聞いてみました。 ごく簡単に言うと、外資系の投資ファンド会社がセブン&アイ傘下のSEIBUデパートを購入して、債務をチャラにした後で、ヨドバシカメラホールディングズに3000億で売却するのだと言う。解説図から、投資ファンド会社が500億儲かるらしいことも示されていました。 解説者によると、「デパートは時代に合わなくなってきていることがわかっていながらも、SEIBUの体質をコンビニ大手の力でさえも変えることが出来なかったのだ」と言う。その解説を聞きながら、「百貨店でたまに家族揃って贅沢をしたい」という時代ではなく、「家族はもうバラバラだし、それぞれがすぐ近くにある小さな幸せで十分事足りる」というような時代になったけれど、まだ前時代の幸せの幻想から日本人は目を覚ますことが出来ていないと言うことなのか。そのニュースは、その氷山の一角であり、縮図なのかもしれないな、と感じずにいられませんでした。 池袋SEIBUと言えば、美大生の頃は、西武百貨店の美術館の展覧会をよく見に行ったものでした。また、長野県内と池袋は、西武高速バスで繋がっているので、長野市に住んでいた頃からそして軽井沢に来てからも、何度もバスを使って池袋経由で都内に入って行ったものです。池袋での用事は、もっぱらSEIBUのみ。そのほかの用事で池袋に行ったことはありません。 その池袋の印象は、あの鮨詰め状態のデパ地下。とにかくいつでも人が溢れていて、何が販売されているのかもよく把握できないようなそういう風景。帰りのバスに乗る前に、崎陽軒の焼売弁当とかマイセンのトンカツサンドとか何か買っておこうと行ってみるのですが、あまりにも人が多くて「大変だなぁ、やめておこうか」と思うのでした。あれほどデパ地下が混んでいても、それ以外は経営不振だったと言うことなのでしょうか。 デパートの1階には、高級ブ

横浜の清貧時代から変わらないこと

 26日(金)に配信したYouTubeアート百花は、「画家と版画家はまったく別物!木や金属を彫るだけじゃない、奥深き版画の世界【版画の世界1】」という内容でした。


いつも月一回、午後1時から5時くらいまで、大阪在住の杉野さんとZOOMで対談し、動画を収録しています。間に休憩は入れますが、多分私は、休憩なしでも4〜5時間くらいは、ずっとアートについて話すことが出来ます。でもそれでは対談にならないので、結構自分では気を遣って杉野さんが話すシーンを作ろうと努力はしているものの、結局は途中から熱く語り始めているうちに、杉野さんのことなどすっかり忘れて話しているかもしれません。


台本らしいものはないのですが、Mac用のKeynoteというプレゼン用のアプリケーションを使っていて、予め1週間くらいかけて、一つのテーマについて情報を調べ上げ、そして作品画像を70枚くらい集めて、アドリブで話しています。本当は細かく話す構成を作ってから話し始めるのが良いとは思うのですが、当日の朝に突然思いつく内容もあるので、ただただ自分のこれまで積み重ねてきた、アート経験から湧き出る言葉を語るという方法で話しています。


私は、作家活動をする前は、芸術学か美学か美術史の研究者になろうと勉強していました。このような作家活動をするとは、30年以上前の私は全く想像もしていなかったと思います。


大学院終了後、大学研究機関に助手として就職し、当時、何のスペシャリストになるか、とても悩んでいた時期があります。大学院では、「禅の創造性」というテーマで修士論文を書いて修了しました。担当の教官は、杉野正氏という美学事典の執筆者として名前を連ねている東大学派の美学研究者でした。


私が何に躓いてしまったかというと、「歴史」という学問領域自体が行き詰まっていることに気がついたからです。当時は新しい学問分野として、「文化人類学」や「社会学」が日本の研究畑で注目を浴び始めていて、勢いのある研究者の著作物がしきりに刊行され、書店に平積みされていました。「文化人類学」や「社会学」の研究分野から見ると、「歴史学」や「民俗学」はもうどうしても古い視点に見えてしまうし、ましてや「美術史学」というのは確立しているかどうかもようわからなくなり、「美学」は「哲学」の一分野なのかもしれないと思うと、もう自分の学歴の範囲を超えてしまう。


しかし自分自身が知りたい、研究したいことは確実にあり、ただ、それがどの分野に属するものなのか、一体どこへ行けば同じような考えを持っている師に出会えるのかが、結局わからないまま、人生の方向が定まらない漂白の人生がしばらく10年くらい続いたのでした。


その時があって今があるので、その悩みというのは決して徒労に終わったわけではないのですが。


一昨日、1冊の本が届きました。作品が売れてようやく買えたレヴィ=ストロース著『構造人類学』です。1989〜91年当時、横浜市保土ヶ谷区の家賃月2万円の安いアパートに住んでいた時には、テレビも電話もお風呂もなく、トイレは汲み取り式でした。もちろん当時は、スマホもPCもない時代でしたから、とにかく6畳一間で、たくさんの本を読む以外の娯楽などありませんでした。私の清貧時代はここから始まるのです。ちなみにいまだにそのアパートはあるようです。


当時は美学美術史以外に、心理学、哲学、宗教学、特に禅に関する本は何でも読みました。そして文化人類学は、レヴィ=ストロースの『野性の思考』『神話と意味』は読んでたいのですが、この『構造人類学』が手に入らなくて、結局諦めたままになっていました。


この本はしばらく絶版で、1万円以上の値段がついていたのですが、この度この5月18日にみすず書房から新装復刊されたのです。復刊でも定価7200円です。


早速少し読んでみて、あの時にこれを読んでいたなら、もしかしたら人生が変わっていたかもしれないなと感じました。私の当時の疑問に答えとなるような内容から始まるのです。そしてこの本は、アフリカの芸術についての分析研究が、かなりのページ数割かれています。つまり、このレヴィ=ストロースの登場で、西洋美術史そのものがとても狭い世界観での研究ということになってしまい、その後アートの概念さえも変わり、アート分野自体が膨張していくきっかけとなっていると言っても過言ではないのです。当時それは、かなりセンセーショナルな画期的な研究だったのです。そのような研究が今の私に必要なのかどうかといえば、私自身も、一体自分が何者で何になろうというのかと思うけれど、いまだに私の中で解明せずにいられない課題があるのです。


それは、日本人にとっての「芸術」という概念を抽出することです。それは、私自身が絵画制作に携わりながら、肌で感じる、日本の人々の細やかで繊細なアートへの視線です。日本人にしか作れない、感じられないアートの世界というものを私は研究論文ではなく、実際の作品として実現してみたい。ただ感覚的に描くというのではなく、概念の分析から確かに実感するそういうところから絵画を制作してみたいという野心へといつの間にか変わり、今に至るのです。




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