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「自分を信じる」信仰
私はよく「自分を信じる」ということが大切だというような話をよくします。昨晩もYouTubeで配信された動画内で、そう言っていました。私の口癖になっているかもしれません。
今日は制作をしながら、自分の何を信じているかを考えていました。おそらく私の言葉を聞いた人は、「信じられる自分であるわけがない」「それは川田さんだけに通用する考え方に過ぎない」と言うでしょう。そういう時は、私はあまり人の気持ちや考え方を変えたくないので、その意見に反論したりしません。なので、ここにその意味を書いておきたいと思います。
私は特定の宗教を持っているわけではないのですが、子供の頃から様々な信仰を持っている人に出会って来ました。「入会しませんか?」と、様々な宗教の勧誘を受けて来ました。しかし、私には自分なりに信じていることがあるので、特定の宗教にはとうとうおさまることはありませんでした。
私は美術を愛したり、自分で制作したり、アートの様々なことを知ることがとても好きです。そのことで私がどれほど救われて来たか計り知れません。何か困ったことがあっても、制作することで乗り越えられました。一人で世界のあちこちを歩き回っても、何一つトラブルなく日本に帰って来れるのも、いつも美術があるところにしか見に行かないからです。特にヨーロッパの都市に必ずある美術館に入ると、私は「守られている」と何度も実感したものです。
それで、ある時そのこと自体が信仰なのだと気づきました。私にとっての制作は宗教上の修行と同じであり、アートはそのもの自体が聖書のようなもの、美術館は聖堂なのです。そういうところから、アートを作る人々は、誰もが聖者で、見る人々でさえもまた信仰を持つ人に感じられます。
「いやそれでもダメなアートってあるでしょ」と人に言われても、私はきっと「それは私の目がまだ開眼してないだけで、もしかしたらそのうちその良さがわかる日が来るかもしれないので、今の私はその途上です。」と答えると思います。そのようにしてずっと後から、その良さがわかる自分になった時に、ますますアートも自分も信じるに値すると自覚するようになって行くのです。
これは漠然とした私の感じ方の問題なので、決して盲信して人々に押し付ける気持ちなど何もありません。
そもそも、宗教上の信仰心というのは、どういうものかというと、信仰があって宗教になるのではなく、常に信じているかどうかを確認し、試し、信じようと努めること自体が修行であり、信仰のあり方だと思っているのです。すっかり信じ切っていることが信仰ではないのです。信じようとすることが信仰です。どこまでアートを信じ、自分を信じることができるか?それが常に試されるので、自ずと信じられる作品になるように努めるし、信じられる自分とはどのような生活をしているものか?を基準に生活しています。どのような欠点があろうと、どのようにうまくいかないことがあろうと、最後の最後まで諦めずに信じるのです。
「信じられる自分ではない」からこそ、信仰が試されるというわけです。この信仰を持つと、アート以外のモノにも応用できるし、人を愛することや、世の中に対しても同じことが応用できます。自分の至らなさを十二分に思い知っているので、他人や世の中にたとえ裏切られても、「今はうまくいかなくてもきっとそのうち信じられるようになるに違いない」と思えるようになってきます。そして結局のところ、少し時間が経つと、その通りになるのです。なぜなら、そのような中に存在する自分は、信じられる自分であるはずで、決して切り離された存在ではないからです。
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